好きに生きる

今世お憑かれさまでした。

結局どんな意識が必要なのか

ども。

今回の記事は生活的なものとは関係ないです。

 

はてなのトップページにはちょこちょこ差別問題に関する記事がのぼってくる。気になるのでちょこちょこ見るが、完全なネタにしていたり、深刻に伝えている人がいたり、淡々としていたり、記事はその時で様々な印象を与えてくる。

 

私個人、生まれてから定期的に、差別の問題に直面する。

 

学校であった道徳の時間の内容はほとんど覚えていない。

強烈に覚えているのは、体が不自由な子の動きを「気持ち悪い」と言う子や、成績の低い男の子を「バイキンだ」と言って、触ったらみんなで「バイキン」を擦り付け合う行為。

 

自分の身近に起きた誰かを否定する行為。

 

学校へ行っているとなんとも面白かった。

 

道徳の授業で差別にあった話の主人公を「かわいそうでした」って感想でしめくくったのに、そうやってバイキンだ気持ち悪いといっている女子とか男子とか。

 

まあ大人になった今でもそういう子供たちの差別意識をどうするかなんて考えもつかない。そういう意識をどうにかするのは親。

その次大人になれば自分自身でどうにかする。

自分の自己意識なんて自己責任でどうにかするしかない。

 

そもそも「かわいそうでした」だなんて。

「問題解決には話し合ったらいいと思う」とか

「考えを改める」なんて感想にならないあたり、きっと「しかたないじゃん」とか「そういうもの」で締めくくっている感想だ。

 

考えなんて及ばない。

考え出したら自分に都合の良くない結果が出てくるから。

自分を「差別をした人間」だって罪悪感を抱いてしまうから。

 

なんだっけ、そう、ポリコレ棒とかいうやつ。

 

その記事を見て私も書きだしてみたけど、何が言いたいかって長くなったけど

 

最終的に私は何を考えるかということ。

 

差別で悪だ善だと訴えるよりもやることがある。

 

それは「相手を知ること」。

 

なぜそれを「気持ち悪い」と感じるのか。

なぜそいつが「悪」なのか。

 

それを他人の意見を参考にして、いろんな記事を読んで。

いろんな人の話を聞いて、さんざんたくさん自分の頭で考える。

 

誰かが言っていた意見をコピペするんじゃなくて、

誰かが言っていた意見に賛成、そして自分はこう考えた。

 

その過程が必要だと感じています。

 

なんで本音が炎上したのか。

なんで知ってもらおうとして傷つけられたのか。

 

被害者ぶるやつが嫌いならば、

自分も被害者ヅラはしないこと。

 

本音を言っただけなのに殴られるなんて心外だと言う人は、その本音が誰かを殴っていることを知るだけでいい。

 

私は差別だろうが何だろうが意見を述べること本音を話すことをやめろと言うつもりはない。

 

だだどうしてそんなことになったのか、自分と違う人間がどんなことを考えているのか、心深く理解する必要はない。

共感しろだなんて押しつけがましいことをいうつもりもない。

 

だけど思考停止して悪だ善だ、自分は悪くないあいつが悪い、あの人は良いし自分もいいって完結させないで、なぜ私たちはそんな発言をするのか、自分がそんな本音なのか。

 

それをちゃんと知ってほしい。